自分のことを話さなきゃ、でも話せない
前回の記事で、それは信頼関係が築けていないためというお話をしました。
それに対し、自分のことを話して信頼を得ていこうとする。
しかし、そんな自分が世間に受け入れられるとは思えない性質(性格)である場合。
自分のことを話したいとは思えないのです。
それは、例を挙げれば以下のような性格です。
・世間に言えば引かれてしまう、笑われてしまうような趣味・趣向を持っている。
・それなりの年齢になったけど、年相応な振る舞いがどうしてもできない。
・また周りが大人な趣味を持つ中、自分は子供が好きそうな趣味しか持てない。
・つい失言してしまう癖がある。
・どうしても自己顕示欲が抑えきれない。
・自分は普通に人と話しているつもりなのに、なぜか見下されてしまう。
そんな自分の性格が嫌であるため、自分のことを話したいとは到底思えないのです。
ここでその部分を全く自覚していない、または見下されても全く気にしない人であれば良いのかもしれません。
しかし、見下されることに悩む人はその原因を散々他人に言及されてきました。
そのため、自分の嫌なところは嫌と言うほど自覚している。
なのに、その性質がとても強いため、直せないのです。
直すためにある程度の努力は試みたことはある。
子供っぽいとバカにされたのでちょっと大人な趣味を持ってみる。
落ち着いた話し方にしてみようと心がけてみる。
しかし、それはそれで動作にぎこちなさや、痛々しさがでてしまう。
結果他の人から、笑われてしまうのです。
自分の性質からは逃げられない
世間に合わせようとしてもどうしても違和感が出てしまう。
それは、それほどまでに自分の「性質」が強いということです。
近年「多様性」という言葉が使われはじめました。
色んな人種や考え方を認めていこうという言葉です。
しかし、それで「見下される」問題は解決したでしょうか?
解決したという人はなかなかいないのではないでしょうか。
それは、この記事を書いた「見下される素質」がある私が、何よりそう思うからです。
私は、集団行動が苦手です。
興味がない人との雑談も苦手です。
流行りのアニメやドラマ、俳優、スポーツの話題もあまり知りません。
もっというと流行りに乗るのが好きではありません。
(流行りに乗る/乗らないに良い悪いがあるとは思っていません。)
この性格をいくら変えようと試みても、ぎこちなさが生じてしまう。
結果、最後は誰からも見下されてきました。
これだけ世間に合わない自分を、根本から変えようとすればとてつもない努力と年月が必要なのだと気付きました。
なぜいきなりこんな話をしたかというと、これは私だけが持つ問題ではないからです。
性質がズレているとこの社会は生きづらい
この社会は、ある程度世間の感性にあってないと生きづらい場所です。
会社が良い例です。
雑談も苦手なのに飲み会へほぼ強制参加させられる。
流行りに疎く、自分の好きな曲しか知らないのにカラオケへ行かなければいけない雰囲気がある。
もっと言えば、明らかに集団行動が苦手なのにほぼ毎日決まった時間、たくさんの人と同じ場所で働かされる。
近年では飲み会等の誘いはハラスメントに対する意識が強くなったことで断りやすい時代になりました。
もちろん、ほとんどの場合は相手も悪意で誘っている訳ではないので、その人に敵意を向ける必要もありません。
しかし、何度も誘われれば断りにくいのは事実です。
そんな世界では、自分の性質が世間とずれている人には生きにくいのは当然ではないでしょうか。
自分の性質と付き合うために必要な覚悟
世間に受け入れられにくい「性質」を持って生まれてしまった。
そしてそれは簡単に変えられるものでもない。
そんな人生を強く生きるにはある覚悟が必要です。
それは
「自分が自分の味方でい続ける覚悟」
です。
それは、家族があなたの趣味をバカにしてきても。
学校のクラスや会社で仲間外れにされてしまっても。
友達グループの中で優先順位が低く、人望が薄かったとしても。
そんな自分を励まして生きていく強い覚悟です。
更に、もし神様がこの世界にいたとして、それが「あなたを不幸にさせる」存在であったら。
それすら無視して進む(くらいの)覚悟です。
念のためお話ししておくと、これは「ありがままに自分を常に肯定しましょう」という楽観的な話ではありません。
周囲や自分にとって不都合な性質があると分かった時、それを抱えて生きる覚悟を決めることです。
もちろん、言葉にできるほど簡単な話ではありません。
しかし、自分が自分の味方でい続ける覚悟を決めた時。
周囲からの人望よりも大切なものを手に入れることが出来るでしょう。