なぜ私がカーストの最底辺に…
見下されるという問題は人が集まれば集まるほど起きやすいものです。
学校のクラスや職場、バイト先、友達グループ、etc…。
この世界には色々な集団がありますが、いずれも「見下される」問題と無縁なものはないでしょう。
その原因は仕事の能力が平均より下だったり、協調性を取ろうとしても取れなかったり、感性が世間とズレていたりと、様々です。
そして、そんな「見下される」人は集団に複数いる場合もあります。
しかし、見下される人たち同士が仲が良いかと言うと、そうとは限りません。
「見下される」人同士の中でもお互い悪意で見下しあったりしてしまうこともあります。
つまりそこでも1つのカーストができてしまうということ。
それだけでも辛いのですが、更に悲しいのは
その見下されている人たちからも見下される
という問題。
つまり
自分が見下される人たちの中でカーストの最底辺になってしまうということです。
周りを見渡しても、手を差し伸べれくれる人もいない。
それどころか、目に見えるのはあなたを嘲笑う表情ばかり。
孤独で惨めな気持ちになり、心細い気持ちになってしまうのです。
カーストの最底辺にいるときにやらない方がよいこと①
見下されている人達からも見下され、カーストの最底辺にいる。
それを自覚した時、精神的にも辛くなります。
その状態でやらない方がよいことがあります。
それは
自己犠牲を受け入れてしまう
ことです。
つまりなんでも許す「聖母キャラ」のようになるということ。
漫画やアニメに出てくるような「自己犠牲型ヒーロー」といってもいいかもしれません。
「見下されサバイバー」の方達は、相手の気持ちを考えられる方が多いです。
そのため、周囲から見下されている相手が見下してきても
「まああれだけの人に見下されてるなら、こうなるよな…」
「きっとこの人は家庭環境が悪くてこんな性格になってしまったんだな」
などと考えるようにしてしまう。
そして今いる自分の状況を甘んじて受け入れてしまうのです。
もちろん、そういう考え方も時には必要でしょう。
そんな自分を責める必要はありません。
あなたは「優しい心」を持とうとしているのかもしれません。
しかし。
それはあなた自身の「腹の立つ」感情を大事にしているのでしょうか?
自分の悲しい、悔しい、辛い気持ちに一瞬でも目を向けたことはあるのでしょうか?
優しい心を持つと言いながら、自分には優しくしていないのです。
腹がたったら怒ってください。
別に他人に無理に怒る必要はありません。
無理してやり返す必要もありません。
でも、腹が立ったなら腹を立ててください。
そして、無理に他人に優しくあろうとしないでください。
「見下しあい」の世界はそんな生ぬるいものではありません。
あからさまな暴力や暴言ではないため気づきにくいですが、じわじわとあなたの自尊心が崩されていきます。
そんな世界で、誰でも彼でも優しくしてしまえば、簡単に足元を掬われてしまいます。
まずは自分の身と尊厳を守ることが重要なのです。
カーストの最底辺にいるときにやらない方がよいこと②
やらない方がよいことはもう1点あります。
それは、
そんな自分を自嘲して終わらせてしまう
です。
もちろん、自嘲したくなる時もあるでしょう。
かくいう私も「見下される自分の見方が変わるコラム」を書いているため、常に強く生きていると思っている方もおられると思います。
しかし、全然そんなことはありません(苦笑)
様々な時と場所で様々な人から見下され続けた自分の人生を振り返ると
「ああ、なんて自分は惨めで哀れなんだ…」
と悲しさのあまり自嘲することはあります。
しかし、最後は必ず「それでも自分を生きよう」という心の位置に戻るようにしています。
落ち込んでもいい。
惨めでもいい。
自嘲してもいい。
でも、それだけでは終わらせない。
もしあなたが見下される環境でカーストの最底辺になってしまったのであれば。
自分まで自分を見下して終わりにはしてほしくないのです。
自分が自分の味方でい続ける覚悟
見下されている人からも見下される。
カーストの最底辺に今自分がいる。
そんな時、1番の味方は誰になるのでしょうか?
それは、他でもなく自分です。
もちろん大前提として、その場から逃げれるのであれば逃げた方がよいでしょう。
相談できる人がいるのであればした方が良いでしょう。
しかし、そんな都合よく環境が用意されているとは限りません。
また、対処にも時間がかかる場合もあるでしょう。
そんな時、そばにいるのは自分だけかもしれません。
「惨め」で「哀れ」な自分。
かたや、ここまで生きてきた「強い」自分。
そんな自分同士で生きる覚悟が「見下されサバイバー」には必要なのです。