世間の幸せという厄介な基準
前回の記事では、世の中は不公平だというお話をしました。
ところで、「不公平だ」と感じる要因とは一体なんなのでしょうか?
前回お話ししたエピソードでは、ある基準が劣等感の元になっていましたよね。
それは
・良い人間関係(友達の数・パートナーの有無)
・どれだけお金を持っているか
というものです。
これらは世間でよく言われる「幸せの基準」の1つです。
見下されサバイバーの方で、この基準が世間の平均に達しておらず見下された方は多いのではないでしょうか。
例えば、友達が少ない。
パートナーがいない。
年収が少ない。
周りは正社員なのに自分だけは非正規雇用。
挙げればキリがないですが、このような世間の基準はたくさんあります。
見下される人は、これらが1つの基準だけではなく、複数の基準を下回っていることで見下されてしまうのです。
このような基準があることで、自らを「劣っている」と感じ、苦しんでいる人がとても多いのです。
更に、それは「見下される」要因となってしまうのです。
自分の幸せが決まってしまう仕組み
なぜ、世間ではこのように「幸せな基準」が決まっているのでしょうか?
それは、世間ではこのような基準を
「これが人生の“絶対”の幸せです!」
と言わんばかりに「幸せのものさし」を見せつけられてきたからです。
それは主にテレビによる影響が強いでしょう。
「タレントの○○さんと俳優の××さんが結婚!」
「年収○億円の豪華マンションの生活は!?」
「SNSフォロワー数○○万のインフルエンサーの暮らし」
と、これでもかと「世間が決めた幸せのトップ」に関する話題が番組では取り上げられます。
もちろんですが、これらの幸せは決して悪いものではありません。
そういう幸せが合っている人も世の中にはいるでしょう。
また、その幸せを得るために、血が滲むような努力をした人もいるでしょう。
しかし、このような幸せは誰しもが手に入れられる訳でもありません。
持たざる者からすればただただ苦しいものでしかありません。
そしてこのような価値観は社会全体を覆っています。
友達は多い方がいい。
ある程度の年齢に達すれば恋愛経験はあって当然のことだ。
家族を持つことはいいことだ。
お金を沢山持っていることは良いことだ。
ほとんどの人は、このような価値観を小さい頃からなんとなく教えこまれてきました。
それゆえに、持っていないとどうしても自分が「劣っている」と感じてしまうのです。
幸せ基準はまともに受け止めなくてもいい
この世界には例外なく優劣があります。
中には、人並みの努力で埋められるものもあります。
しかし、才能や環境でしか埋められないものもたくさんあります。
でも、真面目なあなたはきっと、世間の基準を満たせない自分を
「ダメな自分だ」
「自分の努力が足りないんだ」
と思い、苦しんでいるのかもしれません。
また、周りからイヤというほど馬鹿にされてしまったかもしれません。
しかし、頼んでもないのに勝手に用意されたそんな「基準」を、あなたがわざわざ超えてあげる必要はあるのでしょうか?
この社会の決めた基準は、そこまで大層なものなのでしょうか?
そんな基準は超えたいと思う人、簡単に超えられる人に任せておけばいいのです。
むしろ、超えられないと思うのであれば、それは自分にとって大切な基準を得られるチャンスなのです。
これはポジティブに考えようという話ではありません。
単に自分のために、自分の充実のために生きるチャンスが転がっているのにそれを見逃してしまうのは勿体ないという話です。
あなたは、これからも世間の基準を満たそうと生きていきますでしょうか?
それとも自分が決めた、自分のための基準を満たそうと生きていきますでしょうか?