「共感の演技」をする日々
人の話に共感できないという悩みがあります。
例えば
「見てこの服!可愛くない?」
と聞かれる。
「すごいね」と言ってみるも、感情が入らない。
それが明らかに相手に伝わり
「絶対そう思ってないでしょ」
「本当にそう思っているの?」
と言われてしまう。
そして、次はそうならないように逆に「わあ!すごいね!」と感情をこめたようにオーバーに言ってみる。
すると
「急にどうしたの?」
と言われ、思い切り笑われてしまう…
腹が立つものの、今の反応があまりにもオーバーだったのは事実。
なぜ共感ができないのだろう…。
「見下される」ことに悩んでいる人は特に自然な共感ができません。
それゆえに人間関係でとてつもなく苦労してしまうのです。
「共感の強制」に気づく
「共感」ができないという悩みに関しては、まず
共感を押し付けられていないか?
という点に気づく必要があります。
見下される人は感性を否定されてきました。
そして見下す人の感性が正しいのだと無意識のうちに教え込まれてきました。
教え込まれたとはいっても、はっきりと「お前の感性はおかしい!私のは正しい!」
と言われたとは限りません。
子供の頃、家族に対して自分の感性を表現すると
「はいはい。」
「ふーん」
などと面倒くさそうなリアクションをされる一方、
相手の感性の表現に対し同じリアクションを取ると
「なんか冷たいね…」
「○○って思わないの?」
と強い口調で言われる。
それが静かに何回も繰り返され、当たり前だった故に
「私の感性を抑えこみ、相手の感性に徹底的な共感をするのが正しいのだ」
という考えが身に付いてしまったのです。
だから、相手が「共感」を強制してきていないかをチェックする。
これは普段から自分を表現できている人からしたら簡単に気付くのですが、普段から感情を抑圧されてきている人はなかなか気付きにくいのです。
まずは気付くことがスタートラインになります。
そもそも「共感」とは自然に湧いてくるものです。
それを強制するということは、小さな「脅し」をしているというわけです。
脅して得る共感は、本当の共感とはいえないでしょう。
だからそのような相手に「共感」できないことを責める必要は一切ありません。
「共感」には「質問返し」
とはいえ、共感ができないと人間関係が円滑に進まない場合がありますよね。
こういう時は
いきなり共感せず、質問で返す
と良いと思います。
長年「共感」を強制されてきた人は「共感ができない」と悩んでいるため、つい
「Yes」「No」
の二択でのみ考えてしまいます。
しかし世の中、会話のバリエーションは色々あるわけです。
「この服、可愛くない?」と聞かれたら
「そうね」や「は〜」と
さらっと共感します。
次に、間をおかずに
「どこのお店で買ったの?」
「こういうのって、どういう場所で売ってるの?」
と質問してみます。
実際は
「そうね。どこのお店で買ったの?」
と1回で言い切る感じです。
そして相手が答えた後は
違う質問を繰り返すなりしたあとに
「へ〜いいじゃん」
と言ってみる。
もちろんここで無理矢理感情を込める必要はありません。
共感を強制されてから、いきなり「へ〜いいじゃん」というよりも質問を繰り返したため、相手も興味があるように見えます。
深い「共感」はしていないけれど、自分のことを聞かれて嫌な人っていませんよね。
(都合が悪いことがなければ)
特にこういう「共感」をつい強制してしまう人は、自分のことを聞いてほしいと思っています。
これは「共感」を求められた際の会話の方法でもありますが、同時に「知識が増えていく」というメリットもあります。
知識が増えれば、社会での会話もある程度ついていけるため、安心できますよね。
といっても、
「世間の価値観を自分に取り入れて、社会についていこう!」
ということではなく、あくまで処世術の1つとして役に立っていくのです。
心の底から「共感」をする必要はない
感性を抑圧されてきた人にとって、自然な共感ができる人は憧れてしまいがちです。
だからつい自分も「共感」しようと思ってしまう。
でも自分にとって何も感情が湧いてこないことに対していくら共感しようとしても「共感」はできません。
だって、そもそも感情はコントロールできないのですから。
だから無理に世間の「共感」に合わせなくてもいい。
その分、自分の感性を大切にする時間を作ってみてください。
そんな自分に合う感性とあう人や作品と出会った時。
心の底から「深い」共感が、訪れるかもしれません。